雷井戸・重源上人

雷井戸の伝説

西福寺は、鎌倉時代初期に東大寺再建に尽力し、この地で生まれたという伝説がある俊乗房重源上人が中興の開基と伝えられています。

その重源上人がこの地で雨乞いの儀式をしていた時に、本堂の隣にあった井戸でお婆さんが洗濯をしていました。雨乞いの効果がてきめんとなり、にわかに黒い雷雲が空を覆い、夕立となりました。

ゴロゴロという雷鳴と共にその井戸に雷が落ちたのですが、落ち着いていたおばあさんは、すかさず洗濯中のたらいで井戸に蓋をして雷を閉じ込めてしまいました。おばあさんは、井戸に落ちた雷に説諭し、雷を逃がすかわりに二度とこの地に落ちないという約束をその雷から取り付けました。

その時の約束とは、ゴロゴロと雷の音がした時に「クワバラ、クワバラ」と村人たちに唱えてもらえれば、この地が桑原であることが分かるので、雷が間違って落ちることがないというものです。この約束を交わしたのちに雷は解放され、天に戻ることができました。

この逸話がもとで、「クワバラ、クワバラ」と唱えることが雷封じの呪文となりました。今ではこの風習が全国に広まり、雷が鳴れば「クワバラ、クワバラ」と言えば雷が落ちないと、日本人なら誰もが知っているはずです。

西福寺には今も雷井戸が現存

境内には今も、雷井戸がそのまま現存されており、多くの参拝者が訪れるこの寺の見所の一つとなっています。

当時の時の流れに思いを馳せて、是非皆様の目でご覧になってください。

和泉を救った重源上人

ここ西福寺は雷除け以外に、先ほど少し述べた重源上人(1121年-1206年)にゆかりのあるお寺でもあります。

この地では、村人たちは俊乗房重源上人のことを俊乗房(しゅんじょうぼう)がなまり「すいじょぼ」と呼び、さらに「すいじょぼさん」と親しみを込めて愛称で呼んでいます。なぜ、重源上人がこんなにも親しまれているかと言えば、説話にもあるように昔この和泉の地は7月8月に雨が少なく、農家の人達は毎年水不足に悩んでいました。そこで、全国を行脚していた重源上人が、水不足解消に向けて納花谷にダム式の谷山池を造ることにしたのです。

ため池として雨水を溜めておき、干ばつだった和泉の田畑に農業用水が行き渡るように用水路の建設も行いました。村人たちが現代でも重源上人を敬う背景には、治水工事により農業に必要な水が安定的に供給され、村の人々を救ったと言う歴史があります。もちろん、谷山池は今でも残っており「すいじょぼ池」と呼ばれて親しまれています。谷山池のほとりには重源上人をお祀りしたほこらがあり、現在でも地元の人たちの信仰が続いています。

当時としては、破格の大規模な灌漑工事であったことは明らかで、土木工事の高度な知識と技術を村人たちに教え、治水工事に励んだ重源上人は卓越した土木技術を持ったお人でした。源平の争乱で焼け落ちた東大寺の再建という大事業を推進するにあたって、後白河法皇からその勧進職(総責任者)に抜擢され、無事再建を果たしたのもこの重源上人です。

重源上人の優れた土木・建築事業もさることながら、事業に必要な資金は広く浄財寄付を募ることで集めました。知識や技術だけでは事業は進行し得ません。仏様の教えを広める布教活動のかたわら、生活の基盤が覚束ない民衆の声に耳を傾け、必要な事業を推し進めるために為政者のみならず豪族・貴族らからも広く浄財を集めました。

重源上人が水仙の花を人々に伝えた

また、重源上人は谷山池の造成以外にも留学先の宋から水仙の球根を持ち帰り、畑地に適した作物として村人たちにその栽培方法を伝えました。

次第に品質の良い水仙づくりで名を馳せるようになり、室町時代には京の都へも出荷したと言われています。この水仙の栽培を始めたことが礎となり、800年以上たった今でも桑原町で花卉(かき)栽培が主たる産業となっています。また、水仙の花は、現在、和泉市の「市の花」となっています。

和泉市と桑原町と重源上人と西福寺は、切っても切れない深い縁で結ばれているのです。

重源上人
(1121年(保安2年) - 1206年7月12日(建永元年6月5日))は、中世初期の日本に生きた人物。平安時代末期から鎌倉時代にかけて活動した僧。
房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。
東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。

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